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[6] Re: Taiwan Report (1968)

投稿者: 宮門正和、南良隆、本久明 投稿日:2017年 7月19日(水)23時41分29秒 pkbo021-143.kcn.ne.jp  通報   返信・引用 > No.3[元記事へ]

この報告書は、今から50年前の1968年3名のKUWV部員による、中華民国・玉山登山行に関するものです。当時、作成したガリ版刷りの報告書をもとに作成しました(字数の制限の関係で、一部を割愛しています)。又、別途、http://web1.kcn.jp/masa の第9章に、同一内容の報告書を掲載しています(写真付き)。参照ください。
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>
> TAIWAN REPORT  KYOTO UNIV.  WANDERVOGEL (1968)(昭和43年)
>
> (註)
> ●原レポートは、手書きで、ガリ版刷りの全34頁の冊子である。ワードで活字に変換したが、原文のカナ使い、誤字・脱字はそのままとし、書き換え等は行っていない。
> ●原レポートでは、玉山の標高は3997mと記載しているが、最近の情報では玉山の標高は3952mに訂正されている。
> ●1968年に玉山を目指した3名は、元気で70才を迎えた(2017年現在)。これは50年前の我々の青春時代のW・V活動記録である。
>
> 中華民国・玉山(3997m)…写真(略)
>
> 目次
>
> 挨拶、隊員構成他、挨拶
> 会計報告
> 行動概略
> 台湾の概況
> 玉山登行記
> 台東の事
> あとがき
>
>
> 挨拶
>   「4000mの山に登りたい。」この単純な発想から思いついた今回の台湾山岳登山も計画段階に於ては、頗る難渋した。何度も何度も計画中止の憂き目に会って来たが、2月中旬、急に事態は好転し、我々訪華登山隊は、学内試験の終わったのも束の間、台湾に向けていそいそと出発した。
>   登山に際しては、本久君と私が風邪と高山病の為、頂上を目前にして倒れ、南君のみが完登した。天候も例年以上に厳しく行く手の「白きたおやかな峰々」は白く輝き、美しくもあったが、私の目には何か恐ろしくて、物悲しいものが漂っているように見えた。・・・・
>   しかし台湾での約1ヶ月の生活を通して学び取った事は多い。非常に友好的であった台湾の人々。何事につけ御指導を仰いだ現地本部の林天祥先生。これに国立台湾大学の学生達。・・・・
>   思い出すに付けて胸の暖たまるのを覚えるのである。山に於ては充分に活躍出来なかった我々が、何らみじめな気持を持たず、ただ「良かった」という感想を残して帰国出来たのは、ひとえに彼等の心身からの好意に依っている。
>   玉山登山・其他の詳しい記事は後にゆずるとして、今回の我々の登山を暖かい目で見守って下さった橋爪斌先生・クラブ内の諸兄弟・其他色々とご協力下さった方々に心から御礼申し上げます。
>   最後に、台湾から帰国して早くも5ヶ月。有意義だった様々な偲い出を胸に浮かべつつ、この報告書の作成にかかりました。最後迄、読んでいただければ幸いに存じます。
>
> 昭和43年8月20日(1968年)
> 京都大学ワンダーフォーゲル部
> 中華民国台湾省親善登山隊 隊長 宮門正和
>
>
> [隊員構成]
> 隊長    宮門正和 (農学部・当時2回生)……会計・渉外担当
> 副隊長   南 良隆 (経済学部・当時2回生)…装備・記録担当
> 隊員    本久 明 (工学部・当時2回生)……医療・食料担当
>
> [現地本部]
> 中華民国台湾省台北市延平南路99號
>  台湾省体育会山岳協会常務委員  林天祥先生
>
> [留守本部]
> 京都市左京区北白川追分町
>  京都大学農学部食品工学科    橋爪斌先生
>
> (連絡員)
> 京都大学ワンダーフォーゲル部
>   関原健夫(当時3回生)
>   沢田道一(当時2回生)
>   西村和雄(当時2回生)
>
> 挨拶
> ――台湾親善登山を顧みて――
> 3、4人の人間が何かをやりたいと思って考えたのが海外へ出て行こうということだった。しかし初めて海外へ出ようとする彼等にとって何から始めたら良いか、まさに暗中模索の状態であった。この話が単に夢だけに終わってはならない、とすれば行く場所にしても実現の可能性の高い所ということで、台湾の玉山、雪山が考えられた。経済的な面においても、また、日程の面においても、台湾は格好の地であった。それに玉山、雪山を初めとして、中央山脈に存する4000mにとどかんとする峰々は、彼等にとって魅力つきないものがあった。
>  昨年の5月頃から具体的な準備に入ったが、一つの大きな障害があった。それは我々のクラブが如何なる山岳会にも、連盟にも属していないということで、何を通じて、何に頼って登山許可を得たら徒いのか、全くわからない状態であった。幾多の先輩を煩わし、そして総長の推薦状ももらった。しかし、日本山岳協会の推薦状をもらわなければならない。いろいろと働きかけたが1月になっても展望は開けなかった。一時は、皆あきらめてやめてしまおうかという時もあったが、2月、試験の最中に桑原(武夫)先生の紹介により東京へ行き、日本山岳協会より推薦状をもらうことができた。すでに台湾山岳協会の招聘場も受け取っていた。これで晴れて一年越しの計画が実を結ぶこととなった。
>  そして3月、彼等は神戸をたった。4月の始め一ヶ月間の生活を終えて帰って来た。苦しい準備も、全て楽しい思い出となった。
>  この旅の計画は必ずしも彼等の予定通りにはことが運ばなかったかもしれないが、一人一人が自分を評価し、又、我々部としても、彼等の作った事実をステップとして更に伸びて行くことを考えねばならないと思う。今度のこの成果も我々がそれを継承し、これを踏まえて新たな計画を持ち、それを実現することにより、一層輝かしいものになるだろう。
>  我々はまた、今回の台湾登山に際し、橋爪先生、高田先生を初め諸先生、それに台湾山岳協会、日本山岳協会の方々、そして諸先輩、クラブの諸兄弟の惜しまない助力を忘れることはできない。
>  書面を借りて、厚く御礼申し上げます。
> 京都大学ワンダーフォーゲル部
> 昭和42年度主将  吉賀俊一郎
>

> 会計報告・・・(略)
>
> 行 動 概 略(1968年)(昭和43年)
> 3月1日   京都駅集合(PM 1:00)―神戸 上船(PM8:00)
> 2日     神戸港出発(AM1:50)―関西汽船(浮島丸)―
> 4日     沖縄泊港入港(AM12:00) 沖縄空港発(PM7:55)-JAL- 台北松山空港          (PM8:10)。台湾山岳協会の人々の出向へ。龍園大飯店へ。
> 5-8日   台北市内。山岳協会と入山日程打ちあわせ。市近郊の有名地見物。入山準備・食料買出し。
              その他の雑用。
> 9日     台北発(AM5:05)―普通列車―嘉義着(AM12:55) PM6:00 日本登山隊と台湾
         山岳協会員と初会合。
> 10日    北回帰線標見物(午前中) 午後から阿里山鉄道で阿里山へ。着(PM5:40)
> 11-14日 玉山入山
> 15日    (山岳協会員と日本隊の貸し切りbus)嘉義―日月潭―対中泊
> 16日    台中発(AM7:00)― 特快車―台北着(AM9:25)台北市内の大栄大旅社に宿舎を決定        し、24日午後7時迄単独行。
> 17-24日 単独行。(24日。宮門、本久、山岳協会の招待で、台北市近郊の一百甲山登山隊に参加)
> 25-26日 山岳協会その他関係各所へ挨拶。帰国準備。
> 27日    松山空港発(PM2:00)―NORTHWEST―沖縄空港着(PM4:10)
> 28-29日 単独行。
> 30日    沖縄泊港発(PM5:00)―関西汽船(沖の島丸)―
> 4月2日   神戸港着(AM10:00)。解散。
>
>
> 台湾(FORMOSA)の概況       本久明

> 先ず、面積は、日本の九州にほゞ等しく、35570?である。地形は、地図からも明らかなとうり、南北に細長く、南北には約400km、東西は哉ぅ150kmである。その中央に環太平洋造山帯に依る褶曲山脈(中央山脈)が背骨の様に、そそり立っており、3000m以上の山が135座もある。(日本では15座)
>
>   また、台湾のほゞ中央に北回帰線(北緯23°27′)が通っている為、気候は亜熱帯~熱帯に属する。気候分類で云えば、CwとAwの昼間に属している。台北市は(北緯約25°10′)を例にとると最熱月は7月で平均気温は28.2℃、最寒月は2月で15.0℃であり、恒春(北緯22°0′)では、27.6℃(7月)、20.4℃(1月)である。
>
>   雨量は、周囲を海に囲まれている為多く、年平均雨量は2582mmであり、西岸に比べて東岸の方が2~3倍、降雨量が多い。その為、台湾の南部地方は、熱帯性の作物(木材・米・サトウ・ウーロン茶など)が豊富に取れ、台湾の産業の重要な基となっている。雨量と気温の関係を台東(北緯約22°40′)を例に取ると、下の様になる。また、日本と同じく台風の被害国である。台風月は5月から11月迄であるが、7~9月が最も多い。
>
> 大部分は西太平洋で発生したものであり、台湾近海で発生するものは少い。最大風速は、蘭嶼で52.7m/secを記録している。ちょうど、九州の情況と似ている。
>
>   それでは、我々の最も親しんだ台北市を中心として、台湾の歴史を簡単に紹介しよう。現在、日本からの観光客にとって最も接する機会の多い台北市は中華民国の戦時首都として繁栄している。現在の人口は約120万人であり、民国56年7月からは、行政上の特別市として、増々巨大化してゆく都市である。
>
>   台北市の歴史は、台湾全体の開発史から見ると、比較的に遅く開発された町である。昔は、この地方一帯は大加蚋と言はれ、沼地やクリークが多く、開墾は非常に困難な所であった。しかし、清代の康煕47年(1708年)に、福建の陳頼章が、現住民と協力して開拓に着手したと云うのが、台北付近の近代開発の曙と云われている。その後、開発は急速に進み、嘉慶14年(1809年)には、水師游撃という役所が設置される様になり、その商業的・政治的な位置は、増々重要なものとなっていった。
>
>   だが、現住民との間に不和が生じ、小戦争なども起こり、台北地方は次第に衰へて行く事になった。
>
>   しかし、台北は地理的に非常に有利な所に位置する為、清朝は、ここを重要都市とみなし、光緒6年(1880年)に、台北府城を建設した。また光緒11年には、台湾が一つの省に昇格した為、この城は、台湾省城として使用されるに至った。第一代の台湾省の長官の劉銘伝は、文明開化を政策の一にかかげ、都市計画の施行・ガス燈の設置・鉄道敷設・など多くの事業に手がけ、台北は、一段と近代的な都市として生まれ変わった。ここに台北市の基礎が築かれたと云ってもいい。光緒21年(1895年)、日清戦争で、戦勝した日本が台湾を割譲された為、台北の都市建設事業も一応停滞するに至った。台湾を入手した日本は、総督府を台北城に設置した。しかし、と皇子の日本の台北市に対する政策は、人口を約30万人程度の小都市を作る事としていた為、台北の飛ヤク的な発展は望めなかった。
>
> 1919年、日本人の手で台北の町に市制がしかれ、台北市が誕生した。その后、第二次大戦で日本が敗れる迄、台北は台湾の首府として、交通・産業(商業・農業)・貿易などの中心的存在となった。しかし、第二次大戦で、市外の1/3が灰に帰し、民国35年抗日戦争の勝利で、台湾は再び祖国の領土となった。ここに、現在の台北並びに台湾の再建設が始まるのである。
>
>   今日の台北市は、大小様々のビルが建設され、特に、市街を走る、幅の広い舗装道路は、印象的である。このように立派に都市が整備されるに至ったのも、最近10年間あまりの事だそうである。町には、多くのホテル・料理屋・ミヤゲ物店などが乱立し、東南アジアでは香港と並んで、第一の観光都市としても、著しい発展を示している。
>
>   町の建造物で我々の目を引くものと云えば、まず第一に、中国風の豪華絢爛な寺院群であろう。色々な原色を使った、華々しさは、我々の目を驚かすに充分である。次に亭仔脚――これは、台湾特有の厚さを防ぐために、歩道の上に家の二階がつき出たもの――は、歩道の至る所に建設されており、何となく、我々には南国情緒を与えてくれる。
>
>   次に風俗習慣について多少触れてみよう。
> 中国人と云えば、我々はすぐにチャイナドレスを思い付くが、現在の中国人の服装は、日本人と同じであると考えてよい。チャイナドレスを見にゆこうとすれば、レストランや酒家に行かないと、みられないであろう。但し、中国従来の婦人服――旗袍――は、今でも晴着として使われており、祭や結婚式の時などに、時々見られるそうである。
>
>   台北市には多数の料理屋があり、台湾料理(福建料理)・上海料理・北京料理・南京料理・雲南料理など、中国全土の料理が食べられる。香港と並んで、中国料理の本場であり、昔からの老舗も多い。
>
>   台湾の交通は、遠距離には鉄道が用いられ、市内交通にし、バスかタクシーが多く用いられる。台湾のタクシーは大部分、日本のダットサン、ブルーバードを使用している。また基本料金が4円であり、日本のタクシーに比べ、大層庶民的な交通機関として重要な位置を占めている様である。
>
>   また、現在の中国人は、主に福建語や広東語を話している。しかし、標準語として、北京語が使用している。これは、学校教育にも採用され、若い世代の者は、北京語を話すと云う事である。旧日本領時代、中国人に対して、日本政府は日本語を話すことを強要した為、現在でも35~40才以上の人は日本語を話すことが出来、我々日本人にとって非常に気楽に旅が出来る。特に、現在の我々の日本語が乱れていると言われている時、彼等の古風な日本語に接すると、何となく奇異な感じを受け、又、喜ばしいものを覚えるのである。
>
>   以上が簡単な台湾の紹介である。台北市の歴史については、「今日之中国」の第6巻No.1を参考とした。              以上。
>
>
>
> 玉山登行記          南良隆

> 台湾の山の概略  台湾の山は一口に言って深くて大きい。南国に位置する為、その植物景観も変化に富んでいる。典型的な熱帯林~高度を増すにつれて、亜熱帯林、温帯林と樹林帯が移ってゆく。また日本と違って、その樹林帯は3500~3600mまで達する。うっそうと茂った亜熱帯林は、ジャングルの如き様相を呈しているし、台湾東部の太魯閣渓谷を始めとする、多くの急峻な渓谷は、深谷まさに黒部峡谷をしのぐものがある。また、日本の山々が、人里から簡単に眺める事ができ、人間の生活に比較的身近なものとして存在しているのに対し、台湾の山々は平地からは、ちょっと見る訳にはゆかない。我々は、約1ヶ月近くの台湾滞在中に於て、南部の楓港⇔台東間で大武山が、それに東部の鉄道(台東線)の車窓から、中央山脈の雪を頂いた高峰が若干見えたのみである。日々白雪をまとった高峰を畏怖したり、郷愁を抱いたりして、生活している日本人とは違って、台湾に於ては、その様な形で山岳が生活の中に入って来ない故に、山岳宗教(宗教登山)は無いと聞いている。したがって、台湾の山々が、山地の人々(山地族)の狩猟の場としてのみ、人間の生活に関与して来ていたと言うのは、山の深さ・大きさとは無関係では無い様に思われる。
>
>   台湾の山の中で、玉山は新高山という旧名で、我々には良く知られて居る。しかしその標高が、どのくらいであるかを知っているのは、少数の山好きの人か、世界地図と首っぴきになっている受験生くらいのものである。実に3997mである。(古い地図には、よく3950mと記されているが、それは誤り) それに雪山(3884)、南湖大山(3740)、大覇尖山(3505)、大武山(3090)の台湾5大岳を始めとして、3000m以上の高峰は、実に135座にもなる。勿論、3000mと言っても、日本のアルプスの様な訳にはゆかないが、それにしても隣国に、これだけの高い山がある事は、我々とっては驚きである。
>
> 台湾の山とシーズン  台湾は、その中央を北回帰線が通っているという南国である。その為、我々が登山した3月頃は、気候の点では、日本のアルプスの6~7月頃に該当する。平地では、バナナ、パイナップル、パパイアなどが、ほゞ年中豊富に産出されている。4000m近くの山と言っても、当然、日本の山の感覚を持ってしては、理解出来ない。台湾に於ける冬山シーズンは約1ヶ月足らずであり、厳しさの程度も日本の冬山とは問題にならない。北部地方にある雪山は、その名のとうり、雪が多いが、それでも例年3月になると、雪はほとんど消えるそうである。だから、3月~4月が台湾に於ける絶好の登山シーズンと言う事になり、登山も実際、この時期に集中しているそうだ。玉山に於ては、年間の最低気温が、ほゞ―10°位というから、大体の察しは付くだろう。
>
>   また、登山に適さないシーズンと言えば、夏の台風シーズンのみである。台湾の一からして、台風シーズンの山の厳しさがうかがえる。
>
>   台湾は雨量が多い。特に山岳地方に於ける、多雨は日本以上である。年間約3000mm位である。その雨期は大体1~2月の冬である。今年も。我々が台湾に着く2~3日前までは、1ヶ月近くも続いた長雨であった。
>
>   この様な状況判断で、我々は3月を登山に適した時期として選んだのであるが、相肉、今年は50年来の大雪が降った為、予定は大巾に変更せざるを得なくなった。以前3月にスキーを持って行った日本の登山隊の笑い話を聞いたりしたが、今年に関する限り、笑い話が本当になってしまった。玉山は3500m以上は、雪でおおわれ、ちょうど4~5月の日本のアルプスに状況は似ていた。無論、北部地方の雪山は相当の雪が残っていたそうで、3月の中旬に登頂を目先した日本の登山隊はPeakまでは行けなかったと云う事であった。雪の技術も、装備も十分でなかった、我々は、雪山登山を積極的に断念したが、ワンダラーとしては、当然の措置だったと思う。
>
> 台湾の登山活動  日本は、近年空前の登山ブームとかで、夏のアルプスは、まさに銀座なみのにぎわいであるが、事、台湾に関しては、山はまだまだ、ごく一部の山好きの人々の活動の舞台と云う感がする。活動組織体としては、我々が、ずいぶん御世話になった、台湾省体育会山岳協会(会長:周百錬氏)の人々が、中心である。前述した、台湾五大岳に登った人々の会――台湾五大岳会――があるが、会員数は、わずかに200人程度と云う事だ。しかし、近年、登山の大衆化運動が活発に展開されており、台北では山岳協会が中心となって、毎日曜日に、会員を募って、近くの山々への登山が行われている。(我々の2人も3月24日の登山会に参加)
>
>   この様な、状況の中で、いわゆる高山登山に関しては、日本からの登山隊の多いのが、特徴である。色々な、記録を見ると、戦前、日本からの隊が、相当活発に登山活動を繰りひろげた様である。[山と渓谷 昭7.11月台湾の山岳 伊藤彦一、山と渓谷 昭9.7月 新高山とその周辺 安藤博、山と渓谷 昭11.7月 積雪期に於ける北部対話の山岳 阿部武道] これらの資料はあまりにも古すぎて、役に立たないが、最近では、「山渓」や「岳人」に時々トピックスとして扱われている。近年は、1年に約10パーティ余りが、日本からやって来ている。丁度3月は時期がいい為、今年は我々を含めて7 Partyがはち合わせすることになってしまった。
>
>   ただ、現在、台湾では、入山管制区域が設けられており、玉山・雪山の2峰のみ、しかも定められたコースのみの登行が、許されている。その為、いわゆるVariation Routeは期待できない。山岳協会の人々の話しでは、もっと自由に入山できる様に努力中であると云う事である。いつ又、台湾を訪れる事が出来るか、わからないが、出来るだけ早く、気楽に入山出来る様に成るのを望みたい。
>
>   この様に、台湾での登山活動は、まだごく一部の人のものの様であるが、その様な中で、排雲山荘で玉山に何十回も登ったと言うオジイサンに会った時は、何か非凡さを覚えたものであった。
>
>
> 玉山登山記録
> ?3月10日  台湾に来てから1週間。玉山登山を計画してから一年有余。愈々、待望の玉山に向けての出発の日である。日本からの登山隊(桜峰会、正陵会、青森山岳会、都立大山岳部、姫工大W・V部、京大山岳部、京大W・V部)の宿舎である嘉義駅前の”世界旅社”は朝早くからあわただしい。 我々を運んでくれる阿里山鉄道の”中興号”の出発は午後2時00分である。心ははやれども、まだ時間は充分にある。そこで足ならしを兼ねて、台湾山岳協会の林樹枝氏(隊長)と周俊郷氏(マネージャー)を含めた、我々40名近くは、嘉義南方の北回帰線標に出かける。(9時25分) 台南に通じる立派な道路の近く、サツマイモ畑の中に、北回帰線標はある。北緯23°27′。インドではカルカッタ付近、アフリカではサハラ砂漠の真中を通り、アメリカでは、フロリダの南・ハバナの近くを通っている。正に、我々にとっては最南端である。南国の太陽の照りそそぐ道路をテレテレと3km余り。11時に世界旅社に帰り着く。
>
>   午後2時。嘉義駅より、阿里山鉄道中興号に乗り込む。幹線を走っている列車より、小さいが、仲々立派でロマンチックな感じのする2両の気動車である。阿里山鉄道は嘉義から、中央山脈の阿里山(2200m)に至り、ループ式・スパイラル式・スイッチバック式などを駆使した、世界に有名な山岳鉄道である。昔は阿里山の木材運搬用に使われたが、現在は観光用鉄道として大いに役立っている。嘉義附近のバナナ・パパイアなどの熱帯性植物帯から、ヤシ・シダ・リユーガンなどの密林を経て、2200mの阿里山へのウッソウとしたヒノキの温帯林に至っている。正に、自然動物園である。
>
>   途中、幾つものトンネル・橋を通り、独立山の螺旋鉄路を過ぎれば、いつの間にか台湾独特の赤味がかった桜の咲く阿里山である。(5時40分)  阿里山は木材の集積地・また雲海の素晴らしい観光地でもある。中興号のガイド嬢とも別れをつげ、今宵の宿舎”阿里山閣“に向かう。
>
>   明日は、玉山の真下、排雲山荘までの行程である。明日の好天気を約束してくれるかの様に、真赤な夕陽が雲海の果てに沈もうとしている。闇と共に阿里山閣は、霧の中に沈んでゆく。今朝までの暑気とはうって変わって、涼しくまた大層静かである。
>
>
> 玉山周辺の山々
> 3月11日  4時30分起床。あたりは、まだ一面の闇である。霧も深い。あわただしく準備をし、阿里山から東埔までの、トロッコ軌道に乗る。(5時45分) 昨日の中興号とは違い、全くの木材運搬用のトロッコであり、昔の弁慶号の様な小型の木炭機関車に引かれてゆっくりと進む。次第に夜も明け、霧も晴れて来る。小さな部落を通り、木造の危なげな橋をいくつも渡る。このあたりは、もう杉・松などの日本でも見なれた樹林帯である。8時30分に東埔に着く。標高2500m。8年前に、この付近で山火事が有った為、あたりは広々としている。トロッコ終点のすぐ下に3、4軒の民家を眺めて、楠梓仙渓の土場に通じるトラック道を登ってゆく。(9時0分) 予期していなかった、総勢40名近くの行軍である。しばらくすると東埔のコルに着く。(9時50分)。ここからはトラック道を離れ、道幅50㎝位の登山道となる。この道は西山に源を持つ楠梓仙渓側をトラバースしているもので、東埔から排雲山荘までは約10.9km 程度である。道を登って行くに従い、右手下には深く切れ込んだ楠梓仙渓が、右手上方には、雪を抱いた南玉山の雄姿が眺められる。鹿林山まで、急な上りが2度程あったが、あとは眺望のいい歩きよい道である。12時0分、西山下の白木林でESSENをとる。真向かいに南玉山から南山に至る稜線を眺めながらの食事。実に美味しい。このあたりから次第に道も悪くなり、残雪もちらほらと現われて来た。切望の断崖の上をヒョイと渡り越し、大峭壁に着く。(2時40分) 次第に残雪も多くなり、弓箭の嫌な道となって来る。ニイタカトドマツ・ケヤキ・ヒノキ・シャクナゲ・ユミタケなどの群生する林を通り、今日の宿舎であり、これからの行動のbase基地になる排雲山荘に着く。(4時30分)
>
>   排雲山荘は3500m地点に位置し、トドマツ・ヒノキなどに囲まれ、正面には、南山への稜線が白く大きく輝いている。この山荘は、昨年(昭和42年)完成し、収容人数約100人、風呂もあり、フトンもそろうと云う、素晴らしいものである。今晩はフトンにくるまれ、ぐっすりと眠り、明日は愈々、主峰Attackと意気あがる所だが、相肉、宮門・本久の体調が思わしくない。食事も全然すすまず、熱も38.5°~39℃位ある。どうやら高山病らしい。他のPartyも2~3人高山病にやられている様だが、主峰を目前にして、我々のPartyは3人のうち2人が倒れるとは。・・・如何ともし難い。高山病には薬はない。とも角、明日の登山の隊のMeetingを終えて、フトンにくるまる。夜空は満天の星で、天候の心配は居らないだろう。明日の主峰Attackは確実だ。枕もとに置いた装備を、もう一度起き上がって点検してみる。宮門も本久も動かないが、眠っては居ないだろう。眠ろうとすれど、仲々眠れない。明日のAttackに興奮して眠れないと云うのでもない。40人近くも居ると、眠っていても静かではない。あちこちで寝返りやイビキの音が聴こえる。その中には、マネージャーの周さんの名物、三拍子イビキもあるのだろう。
>
> 3月12日  5時 30分起床。天候は、やはり良好。慌ただしく食事の準備をし、ラーメンをかきこむ。今日の主峰のAttack は林さんを隊長として、ポーターの邱澄賜さん、そして隊員20名である。京大W・V隊は僕一人だが、出来る所まで頑張ろう。山荘から右よりにコースをとり、残雪の中をジグザグに急登する。1時間ほどの登りで、樹林帯を出る。樹林帯が切れて、視界が開けた時、真直ぐ上に、主峰が眩く輝いている。ここまで来ると、写真で見なれた山容はない。主峰の西北側は。ガクンと切れており、主峰から南山への3900m近くの稜線は、ゆったりと右手上方に伸びている。このあたりは、丁度、玉山のフトコロと云った感じで、少し急傾斜だが、山岳スキーには格好の場所である。広いスロープを直登してゆく。途中3900m位の所に、小さな電柱の残痕が、雪山に頭を出している。ここからは大体、夏道をたどってゆく。俄然、眺望が開けてくる。南山への稜線の向うに鋭鋒、尖山(3222)が見える。振り返ると、頂上まで樹林におおわれた西山。見渡す限り、山また山である。左下鋭く落ち込んだ絶壁の上部をトラバースする。ちょっと肝を冷やす。この難所を終えると、急に風が強くなり、風口に至ったことを知る。(9時20分)さえぎるもののない太平洋の風である。頂上まではあとわずか。このあたりは雪も風に飛ばされ、岩の上に氷のへばり着いた嫌な所である。ポーターの邱さんは、ピッケルも使わず、確実な足どりである。ここまで来れば、休む気にもなれない。一歩誤れば、千仭の谷である。金鳥して疲れも感じない。ただ先行者のステップを一歩一歩、確実に追うのみである。山荘を出てから、2時間50分。着いた。3997m。玉山頂上である。写真でかって見た東山の岩峰がある。南山が、西山が、北山がある。正に“ある”と云う言葉がピッタリする。概念図を何度も書いたり消したりしたが、今、やっと自分の足で確かめた。次々と到着する。誰彼となく握手。黒い頭巾をスッポリとかぶった、隊長の林さんが傑作だ。
>
> 玉山頂上に立つ南(左)。同行の京大山岳部のメンバーと(写真、略)
>
>   寒さでもどかしい手で、レモンをしゃぶったり、カメラのシャッターを押したり忙しい。東山の彼方に秀姑巒山、大水窟山が見える。中でも南山への雪をかぶった稜線は素晴らしい。みんな写真を撮るのに忙しい。果てしなく続いている山々をゆっくりと眺めていたいが、南山あたりからガスが拡がって来る。もっとゆっくりしていたいが、10時40分に下り始める。ズルズルとずり落ちる様な感じだ。雪は陽を浴びて、腐って来ているので、ステップも崩れてしまう。10日程前に入山したPartyの話しでは、下りに時間をとられたと聞いたが、我々は思いの外あっけなく下りてしまった。例の広々としたスロープのあたりをシリセードーで下りてくる頃には、主峰にもガスがかかって来た。11時50分山荘に着く。宮門、本久がフラフラの体で山荘の横迄、出向かえに来てくれた。何よりも僕の登頂成功を喜んでくれたのは、彼等2人だろう。高山病で頭が痛むのか、表情は全体的に冴えないが、にじみ出る喜びはかくせない様だ。とに角、無事に山荘に降りて来られて良かった。午後は小舎の内で、登頂の話、その他雑談をしてすごす。宮門・本久も大分元気になった様で、明日は、もしや登れるかも知れない。
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> 3月13日  本久は大分良いが、宮門はまだ熱があり、とても登れそうにない。結局、二人とも断念する。本当に残念だ。6時半、昨日登らなかったメンバー11名が山荘を出発する。我々三人は、兎も角主峰の見えるあたり迄行こうと、8時半頃に山荘を出る。3700m地点まで行き、日光浴・写真などに時間を費す。今日は昨日以上に天候も良いから全く残念だ。白く輝く主峰は、重々しい威圧感を持って、我々の眼前にそびえ立っている。遠く西山の方では、我々と同様、日光浴を楽しむパーティがいる。インデイアン・コールをかけると、きれいなヨーデルが帰って来た。
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>   11時頃山荘に戻る。丁度その頃、登頂パーティが帰って来る。11名中、結局、ポーターの邱さん、黄利光さんを含めて、4名だけ登頂したそうだ。午後1時、まさに後髪を引かれる思いで、東埔に向けて出発。足並み軽くと迄は行かないが、それでも下りは楽である。高度が下がるにつけ、宮門も元気になって来る。タータカのコルの手前で、登山道を補修している人々に出会う。日本語で「また、いらしてください。」と云われ感激。
> 5時30分、夕陽が山影に沈む頃、“はのトロッコ終点のすぐ下の宿舎に帰り着く。この宿舎は、3~4軒の民家の内の一つだが、我々40名の大Partyで部屋は満員になった。ここでもまた夕空が、きれいで夜になると、ちょうど十五夜の満月が、東埔山の上に輝き、とても印象的だった。周さんが“たぬきばやし”でもやればいいと云って笑ってられたが、今夜の”お化け騒動“は東埔山のたぬきの仕業かも知れない。この”お化け騒動“と云うのは、9時半頃迄、皆で歌を歌って騒いだ後の、真夜中午前2時頃の事である。無論、皆寝静まっている。部屋の隅のちょうど、我々三人の頭のあたりに怪しげな物影が、現われたのである。それを押し入れの中で眠っていた周さんが見付け、林さんを起こしてから、その怪しげな化物に声をかけたところ、その人影が、部屋の隅にすっとかくれて、いくら捜せども見つからなかったのである。さすがの周さんも、これには肝を冷やし、朝迄、眠れなかったとか。
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>   この化物の正体は、未だ不明である。周さんが寝ぼけていた為にその化物を見たのだろうと云ってみたが、周さんは頑として、聴き入れない。とにかく、これから台湾山岳協会の中で“東埔の怪事件”として、語り次がれてゆくだろう。
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> 3月14日  8時30分、東埔よりトロッコにて阿里山に向う。朝の冷気の中をトロッコにゆられて、コトコトと中々良いムードであった。ただ、途中幾度となく停車した為、阿里山には午後1時40分に着いた。阿里山では、我々を待ってくれていた中興号に、飛び乗る様にして、嘉義への帰路に着く。雪の中から一転して灼熱の嘉義へ。少々体にこたえる。今となっては東埔・阿里山などの涼しい山の中が恋しくなって来る。……、「不動如山」。山は動かない。いつでも僕達を待っていてくれる。また機会が有れば、もう一度と思っている次第である。
>

> 台東の事          宮門正和

> 南に向かって  私は山を終えると、単独行の約10日間、出来るだけ台湾の民衆の生活に直に触れる様にと、台東のとある農村に定着する事に決めた。台東の国民学校の校長への紹介状を一枚林天祥先生に書いて貰い、早速行動に移すべく3月16日、南・本久君を台北に残し、午後9時30分の高雄行きの快車に乗り込む。列車の中で退屈しない様にと、車中の友として、日本語の本を探してみたが、全然見当たらない。結局、裏町街の古物市で、古いSFの本を一冊だけ見付け10円で買い込む。そろそろ文字にも飢えて来た様だ。今までの過労がたたってか、左の肩が妙にこっているのを覚える。これからの一人旅でゆっくりと治そうと思う。安堵を求めて列車に乗り込んだが、隣に坐った中年の男性が私が日本人だと解ると、色々としつこく話しかけられ、遂に夜行の列車中は寝られず、午前4時に列車が台南に付く迄、話し詰。―――これも日中民間親善の為だとあきらめつつも、内心腹立たしい。
>
>   3月17日。列車は午前6時05分無事に高雄に着く。北緯22°38′もち論、北回帰線を越えるのは始めてである。恒春方面へのbusを調べてみたら、まだあと1時間程有ったので、裏町に入って、労働者(日本のニコヨンに同じ)に混じって一食3円のお粥をすする。一人で食っていても美味しくない。それに、まわりの人々が、好奇の目をこちらえジロジロ。”何も俺は見せ物でないんだぞ!“
>
>   Busは一路南下して恒春に向かう。天候は快晴。周囲の完全に外国的な緑、索漠とした広さ、強烈な太陽光線に目を細めながら思わず微笑む。”遂に俺はここ迄来てしまったのだ。“
>
>   恒春には昼前に着く。すぐ近くの安宿を探す。丁度手頃で一人一泊25円。荷物を置くと、昼食を食べに町へ出る。町といっても非常に小さそうである。何もない。・・・・ただ有るのは、3月の強烈な太陽.それに静かな中国人の町。
>
> 恒春測候所へ  5分もゆかぬ内に街のはずれに出る。・・・チェッ!何と小さな街なんだ。往った道を戻ると、左手に恒春測候所を発見。これは、日本の登山者にとっては懐かしい、あの気象通報に出て来る測候所だ。入ってゆく。日本語が通じないだろうと思ったので、玄関で”Hallow!"とやってみる。しかし中から出て来た主任は、一目見て私が日本人と判ったのか、ニコニコと笑顔。全く日本語の上手な人だ。そこで自己紹介。「実は、私は京大W・Vの・・・・で、台湾の登山に来ました、いつも気象通報では、お世話になっています。・・・・」彼は非常に感激したのか「今、勤務中で多忙だが、今夜我家に来なさい。ゆっくりと話そう。」と言う。私も今日中にガランピ(台湾の最南端)に行っておきた方ので、その場は失礼し、その足でbusに乗り、午後一杯をかけて、ガランピ岬・墾丁公園(有名な熱帯植物園)を見物する。6時すぎに宿にもどり、風呂を浴び、7時頃に測候所主任の宅へ訪う。先ずは”恒春の特殊地形の気候に及ぼす影響について“と題する講義を、色々の資料を持ち出して約2時間拝聴。それから宗教論に花が咲き、旧約聖書の批判を、延々午前1時までする。久し振りに日本語を思う存分話すのが嬉しいのか、彼は実に良く喋り、こちらが閉口する。おまけに、「これは宗教の正しい有りかたを教えたものだ。」と云って、一冊の仏教書(甚麼是佛法・張澄基著)(中国文)を受ける。とにかく変わった人であった。彼からMESSAGEをもらって来たので、ここに写しておく。
>
> 3月8日。朝、三たび測候所を訪れ、主任と記念撮影。台東に向かう為、10時にbusに乗る。固い握手。「じゃあ、これで失礼」まるで数年来の知古の様に。
>
> 台東に着く  busは、ゆられゆられて中央山脈を越へ、一気に太平洋岸に出る。裏日本から表日本に出た様な風土の変化は見られない。やはり同じ様な強烈な太陽と緑。午後3時、無事に台東に着く。これからここで5日間すごすわけだが、ただ頼りになるのは、林天祥先生に書いてもらった紹介状一枚。これが駄目だったら何も出来なくなるだろう。内心次第に不安が高じて来る。とりあえず早速紹介状に従い、台東鎮内の復興国民学校の校長陳金課先生を尋ねる。校門をくぐり、校内を散策してみたが、小さな小学生が私を泥棒の様にコワイ目でにらむだけで、何が何だか全く要領が得ない。しかし、愈く、20才位のうら若い女の人が目に付いたので、日本語で、「あの~・・・」と言って見たが通じない。そこで”Hallow! I’m…とやってみたら、今度は一目散に逃げてしまった。小学生の目の前で、女の子をいじめているみたいで、何とも気まずい瞬間。
> ・・・すると少しして背後から男の人の声。そこで話の概略を説明すると、大体は判ってくれたが、相肉の校長は不在。とりあえず、応接間に案内される。先程の若い先生が持って来てくれる。「先程はどうも相済みません・・」と言う様な表情を微笑に托して。言葉に不自由してもお互いの意志は必ず通じるものである。――私の方も「いえいえ、どう致しまして。」と言う様な表情をしてみる。
>
>   外の方で、何やガヤガヤすると思ったら、応接間の高い窓からこの珍客を見ている。珍客?――そらそうであろう。薄よごれた山シャツに、紺色のチョッキ。埃まみれのドタ靴に、一杯詰まったKNAP SACK。それにヒゲが1cmもはえている。――その様な人間は、彼等にとって正に”変な外人“そのものだ。
>
>   先程の男の先生が、校長と電話連絡を取ってくれ、電話で校長と話す。実に鮮明な日本語だ。「実は、林天祥先生の紹介で貴方を知ったのですが、私は日本の京都大学・農学部の学生です。このたび、玉山登山にまいりましたが、その後の期間を利用して、台東近郊の(亜)熱帯性農業を見てまわりたいと思っています。つきましては、出来るだけ短期間のうちに、農業を見てまわるに都合のいい農家を紹介してもらえないでしょうか」――すると「私の兄が、県政府の建設局農務課に勤めています。今から兄に連絡して、学校の方に向かう様に言いましょう。」と言う返事だった。万事O・Kである。やはり私は大人にとっても珍しい客なのかも知れない。
>
>   小一時間立って兄の陳金栄氏がオートバイでむかえに来てくれる。再度同じような説明をして了解を得る。彼も林天祥先生とは知り合いである。オートバイに乗せられて、私がこれから生活する農村につれて行かれる。――全く未知の世界へ。中国人の生活の中へ。かくして、台東鎮豊里里100號の陳新彩先生宅にたどり着いたのである。時間にして午後5時前であった。
>
>   さて、この様な次第で、台東にたどり着き、ここでの五日間の生活が始まった。何分、台東に関する予備知識に乏しく、また、中国人の生活感情にもこれまでの台湾での生活で、幾分知り得たとは云え、まだまだ十分とは云へない。幾らかの不安は常に着きまとったが、思い切って飛び込んでみた。その感想は、おいおい書く事にして、先ず台東縣の概況について、簡単に述べておきたい。
>
>   右の図でも明らかなとうり、台東縣は、台湾全島の南東部に位置し、面積は3515?。台湾で3番目に大きな縣であり、全島の9.78%を占める。縦(南北)の長さ110.6km、横の長さ90.3kmであり、丁度日本の長野県にほゞ該当する大きさである。
>
>   河川はそれ程大きいものはなく、卑南渓が80kmでもっとも大きく(流域面積1603?)他は、知元渓、利家渓、秦平渓など30km前後の小さな河川である。全て、中央山脈に水源を持ち、太平洋へ流れる河川であるが、特に、卑南渓は、台東縣の北部から、中部をながれ、台東鎮に(鎮とは、日本の市の様な行政上の単位)に注ぎ込み、台東縣のほゞ半分を、その流域面積として持ち、農業用の灌漑用水として、また、生活用・飲料水として、際立った位置を占めている。下流にかかっていた吊橋の台東大橋は、民国57年のダイナ台風で、こわれた為、台湾技術onlyで、コンクリート橋に再建され、幅7.5m長さ441mの立派なものがある。
>
>   台東縣は高峻な台湾中央山脈を抱いている為、高山が多く、車窓から、ちらほらと見える山々の眺めも美しい。北から順に拾ってみると、三又山(3434m)、大関山(3667m)、大浦山(2377m)、北大武山(3090)、姑子崙山(1629m)などが有る。台東の人々に、これらの山の事を尋ねてみても、程んどの人が何も知らないと云っていい。日本なら岳人の格好の舞台になるところだが。たぶん人に荒らされていない素晴らしい山々が眠っている事であろう。兎に角、里の人の生活と、山の人の生活とは、文化的にも社会的にも完全に切り離されている様である。
>
>   人口は、台湾全島から見ると粗地域に属している。現在の総人口は約28万人(終戦時は8万人)であり、高山族(一作高砂族。属馬来種。全台湾中北山地和東海岸)は約27%を占めている。台湾全島の人口密度が約300人/?であるのに対し、台東縣は、約80人/?と約1/4にも満たない程度である。台湾の大都市は、全部西岸の縦貫鉄道にそって位置し、東岸で、多少とも大きな町と言えば、この台東鎮と、北の方に有る花蓮鎮位のものである。町を散策してみても、あまり密な感じを受けなかったのは、その為だろうか。
>
>   産業の面に於ては、やはり完全な農業中心の産業形態である。豊富な太陽を利用して、コメは2期作であり、他にはサツマイモ・サトウキビ・パイナップル・ミカン類・香水著・バナナなどの熱帯性農作物の生産が行われている。工場なども純工業的なものは、ほとんどなく、農作物の加工(例えば、製糖工場・パイナップル缶詰工場)に関するものが、2~3みられるのみである。林業もかなり行われており、製材所が少々ある。産出された木材は中央山脈を越えて高雄から、または鉄道で花蓮港に運ばれ、主として日本、その他海外に輸出されている。それでは、台東での私の生活を記してゆく。
>
> 3月19日  朝5時30分に起こされる。農家の朝の早いのには、幾らか閉口。台東鎮のほゞ中央にある、台東鎮野菜市場管理委員会の行っている、公設野菜卸場とでも云うものを見物。場所は、よく見てみると小学校(国民学校)の校庭であった。露天市であり、小売商がリヤカーで買いに来る風景は、日本と同じ。ただ取り扱っている野菜は、見知らぬものが多かった。朝食代わりに、バナナを10本程”市“をうろつきながら食べ歩く。そろそろ7時になろうと云う頃、小学生が登校して来た。市もそろそろ終わりそうになったので、再び町に出て、製米工場・農薬工場・市場などをフラフラとぶらつく。昼前に、陳さん宅にもどり、昼食をたべ、その后、近所の豚小舎に行く。作業服を借してもらい、午后はずっと、豚小屋の掃除をする。今迄は豚と云えば、”臭いもの”・”不潔なもの“という先入観が有ったが、仲々どうして、半日も一緒に暮らしていると、仲々可愛いいものである。ここの小舎で働く、小作人の人々と言葉不自由ながら、色々と話す。私が、旧日本統治時代の事を尋ねたり、現在の台湾の農業事情について尋ねたり、農民の生活状況を尋ねたりする。また彼等は、私の報華の感想や、日本の家族制度の実情・文化的な発展の事を尋ねる。ここで、初めて、直の民衆の生活に触れた様な気になる。色々と、苦労も多いらしく、お互いに乏しい言葉で、貴重な時間を持った。
>
>   夕方近く、体中豚の匂ひを漂わせて、帰宅。夕食を済まし、陳さんの主人と寛いでいると、昨日電話で話した、復興国民学校長陳金課氏が来宅。温厚な人で、初対面だというのに、戦後20余年間の積もる話をする様なは感じであった。次第に部落の若い衆・旦那が陳さん宅に集まり、その数は12~3人。半分くらいの人は、日本語が出来る。彼等には、台東の片田舎に来る日本人学生が、珍しいのか、こちらには、突飛としか思われない、奇問を連発させられて、何ともなごやかなものであった。その一例――「日本のトラクターは大層安いそうだが台湾の1/10位か」とか「日本の教育は素晴らしく発展している。若い学生達は、英語で話すのか?」など。お陰で、床に着いたのは午前1時頃。
>
> 3月20日  朝起こされたのが6時頃だったと思う。本日は春分の日であるが、台東附近では別段記念行事はなかった様に思う。朝食をよばれて、玄関で煙草を吸いながら、朝刊を読む。もち論、漢字ばかりで、要領は得ないが、大体の意味はつかめる。越南(Vietnam)で美国(America)の陸軍が大勝利」と報ぜられている。しかも第一面にTop記事として。超親米国の中華民国ならではの書き方である。7時すぎ、陳光燕君(16才・男)・陳月梅ちゃん(11才・女)・陳素真ちゃん(9才)がいずれも登校。私の話せる言葉は少ないが、これだけは通じる。「您好!」(ニンツァォ)。
>
>   9時頃から、台湾省省舎の農務課を訪問。ここの課長さんも、すでに私の存在を知っていて、歓迎される。こちらも、日本の学生として、あまり阿保な事ばかり云っていられないので、鈍い頭を働かして、農業的な事柄について談話。i)台東の交通整備の問題性  ii)港の整備  iii)農民教育の問題  iv)地域性を持たせた、集約農業の計画性  v)高山性作物(リンゴ)などの将来性 など。約2時間程,話し込む。また、日本の文学についても少々。課長さんの言に依ると、最近の日本の口語文体は、旧文語体に比べて、重量感に欠けており、日本人の情緒は格一化して来る傾向に有るとうた。何か、明治時代の人と話しているような気がした。最後に、彼との話の結論は、「これからも是非、日中間の協力がお互いに必要だ。」という事である。私は単なる一書生にすぎないが、この時ばかりは、外務大臣の高官になったような気持であった。握手をして別れる。
>
>   午後には、陳さん宅にもどり、昼寝をする。大分、日本と中国との間の生活上の習慣になれて来た。私自身の食生活にも大分、変化を来たした。第一、ニンニクが、これほどおいしいと思ったのは、全く生涯始めてで、日本では、社会的な機制で食べられないのが現状であるが、もし、日本でもその習慣になれば、私は最たる「ニンニク党」になる事だろう。
>
>   昼からは、畑に出て、バナナ畑を散策したり、水牛に乗ってみたり、まるで田舎に帰った様に開放的な気分で過ごす。南国の太陽を背に浴びて、ノッソリと動く水牛に乗ったりしていた時――全く静かで、およそ文明の造り立す騒音のない――この時こそ、私の今回の台湾訪問の最高の時だった様に思う。
>
> 3月21日  午前中は、パイナップルの缶詰工場と、製糖工場を見物。設備は大きいが、両工場とも今日、休業状態で、大した収穫も得られなかった。ただ製糖工場の人と少々話をしたのが印象に残っている程度である。
>
>   午後から、台東鎮の農会で幹部理事会が有るというので、それに参加させてもらう。会議場に来てみると、私は理事の拍手で向か経られ、来賓席に着席させられる。何か、事が重大になって来たのを感じる。しかし、中国語での何かわからない討論が続き、私は次第に退屈して来たので、藤原君に向けて、台湾のMädchenの品評、玉山の感想など、フザケタ手紙を書き出す。
>
>   半分ほど書いた所で、急に私の方に向けての拍手が起こり、私の隣に着席している議長に、次の事を知らされる。「只今、理事の方が、貴方に現在の日本の農業について話をしてくれる様に決議しました。」これは、大変である。24~5人の台東の農業関係者を前にして話さなければならない。何分、日本の農業に関する事情には詳しくないし、外国人の前で講演するなどという大それたことが、出来るかどうか。そこで「とりあへず、話の内容をこれからまとめますから、15分程時間をください。」と云って、急いで原稿をまとめる。そこで壇上に上がり、大体次の様な事を話す。
>
> i)    訪華目的、現在までの経過。中国に好印象を受けている。
> ii)    現代日本は、積極的な意欲に欠けており、三チャン農業という、不名誉な事が云々されている。
> iii)   米の価格の決定方法について(生産者米価の方が消ヒ者米価より高いこと)
> iv)   北海道などに於ける機械化農法の発達について。
> v)     肥料の購入・共同耕作機械の所有・農民の指導に対する農協の意義について。
> vi)    近郊野菜農業の発達と兼業農家の事について。
>
>   以上、大体30分程かかって話す。顔からは汗が吹き出すし、言葉には詰まるし、ドキドキの連続であった。自分が専門家でないからこそ、これだけの内容を大胆にも話せたと思う。黒板に時々字を書くと、メモをしている人も居た。
>
>   話し終えると、手が上がった。質問あり!!「日本のトラクターの価格は?」「農業基本法の農民との関係について?」「農協は政府の保護を受けているか?」など矢継ぎ早やに質問を浴びせられる。何分、この様な知識には乏しく、第一の質問には、「約5万円位から」、第二のものには、「戦後の農地解放により、小作人を守るためのもの。」第三には「知らない。」と茶を濁す様な答えをした。「日本に帰って適当な資料が有れば送ります」と云って、降壇した。兎に角まいった。
>
>   それからも。理事の間で会議は続き、meは藤原君への手紙を続ける。夕方も7時を過ぎ、相当腹もへったと思った頃、やっと閉会となった。午後7時すぎに、ようやく会議も終わり、食事会に招待される。会議の時はformalな話とは違い、理事の方々とリラックスして話す。要するに、彼等は、日本の工業技術に大変関心を持っており、トラクター等が、たやすく手に入る事を大変望んでいる様である。一流の中華料理が次々と運ばれ、先ずは、台湾ビールで乾杯。腹が空いている為、ビールを一気に飲んでしまうと、体の調子が悪くなるのではないかと不安であったが、あまりに進められるので、断り切れず飲みほす。食事に手をつけようとする頃、発汗がして、目の前がクラクラとする。案の上、裏目に出た。たぶん顔は真青になり、バッタリとたおれたのだろう。
>
>   気が付いて時計を見ると、11時すぎ。どうやらどこかの知らない家にかつぎ込まれた様である。陳さんが、側に居てくれたので一案心する。しかし、何となく家の中がおかしいので、陳さんに尋ねると、その家のお婆さんが、急になくなられたのだそうで、明日が葬式なのだそうだ。中国での葬式には、これまで2回程、町を歩いていて見ているが、日本と違い、大層派手な葬式である。死者に対する考え方が日本とは、相当違うのだろう。
>
>   いくら、酒でつぶれたと云っても、あまりに失礼に当たるので、少々頭がグラグラするが、立ちあがり、仏壇に一礼して、家を出る。何んとも大失敗である。しかし陳さんが、本当に親切に私の世話をしてくれるのには、思わず頭を下げたくなる。台東に来て本当に良かった。陳さんに会えてよかった。11時半ごろ、バイクに乗せられ、帰宅。色々とあった一日だが、要するに酒の飲めない男は駄目だ。
>
> 3月22日  今日の午後の列車で花蓮に向かう予定であったが、農会に今夜町で行われるサーカスに招待された為に予定を変更して、明日朝迄、台東に滞在する事に決める。午前中は、台東鎮の農業改良場を訪れる。ここは、科学的に農業研究をし、農民にその知識を植え付けようとする行政的機関である。なにぶん、時間に限られていたのと、研究の邪魔をしてはいけないと感じた為、落ち着いて話出来なかったが、もう少し、ゆっくりとしていたかった所だ。豚の品種改良に関する本と、様々な農業生産物資料をもらい帰る。午後からは、帰国に関する準備や、子供たちと遊んですごす。陳さんの小学校に通う息子が、日本の列車を書いてくれと云ったので、日本の超特急を書いてやると、それが評判となり、次々と近所の子供にせがまれて、5~6枚書いてやったりした。今迄、子供達とは、言葉が通じない為、交流が無かったが、漢字を羅列すると結構通じるものだ。子供達も最後になって、なついて来たが、もう少し日程の余裕が有れば、ハイキングでもして、楽しかっただろうに。残念だ。
>
>   夜は、予定通り、サーカスに。農会の理事の方々に、心から陳謝する。彼等も、私に無理に酒を飲ましたのが悪かったと、強縮していた。サーカスは、日本のものとほゞ同じ。ただ台東の子供達には、めずらしいらしく、感歎の言葉が時々騒々しく聴かれた。明日朝早く、台東を離れるので、農会の理事の人々と、「又会いましょう」と握手をする。夜食にラーメンを御馳走になり、帰宅したのは10時すぎ。陳光燕君にも、「これでお別れだが、台東の生活は楽しかった。又会いましょう。」と筆談。
>
> 3月23日  朝台東駅7時58分発の花蓮行特快車に乗る。いよいよ台東ともお別れ。陳さん、豊里の村長さん、縣の農会の人々が送りに来てくれる。本当に第二の故郷となった台東。また訪れたいし、また訪れる事を義務の様にも感じる。「再見!台東!」柴車は軽い足取りで、花蓮へと向かった。
>
> 車窓  花蓮の向かう柴車の中で、車掌のMädchenが日本語の発音を教えて欲しいと云うので、「ばびぶべぼ」「ざじずぜぞ」などを教えてあげる。それから親しくなり、彼女の弁当をもらったり、雨をもらったりする。「日本に帰ったら手紙をください」と云うので、「OK」と返事。私も例によって、漢字をならべて、「我希望您的幸福生活!」と書いたら、意味は通じたらしく、ニッコリと笑っていた。彼女は今18才。今も日本語と中国語で時々文通をしている。これが私の台湾での唯一のまともなRomance。これから先、どの様になるか大層楽しみである。(以上)
>
> 台東に関する原稿を書いていると、様々な事柄が思い出され、大層、なつかしかった。また文才に乏しいため、雑い文章になってしまったが、そこはお許し下さい。紙面の関係上、「台東に移民した日本人」についても少々書きたかったが、割あいした。
>
>
> あとがき
> ここにようやく、報告書を出す事になりました。報告書作成を終えて、我々の台湾登山もようやく、終える事になる。台湾出発前の計画段階から、現在まで、色々と苦しいことも多かったが、我々三人には、大いに勉強になった。
> 他の報告書に比べ、我々のものは、如何にも貧弱であるが、精一杯努力したつもりです。読みにくいと思いますが、全部読んで頂ければ、望外の至りです。
>
> 昭和43年9月15日  宮門 正和、南  良隆、本久 明
>
>
> 京都大学ワンダーフォーゲル部
> 台湾登山報告書。
> 発行責任者  佐藤 俊
> 編集責任者  宮門 正和
>
> 以上
>

http://web1.kcn.jp/masa/の第9章参照ください。




[1] 京大ワンゲルOB・OG専用の掲示板を設けました!

投稿者: 管理者 投稿日:2016年12月30日(金)22時42分37秒 user-010177086061.kinet-tv.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

この掲示板を管理している者です。

この度、京都大学ワンダーフォーゲル部は設立60周年を迎えました。
これを機会に京都大学ワンダーフォーゲル部OB・OG専用の掲示板を設けました。

この掲示板の目的は
1.OB同士の交流を容易にし、かつ盛んにすること。
2.OBが他のOBに、または現役部員に自らの山行などの活動をアウトプットすること。
3.現役部員がOBの活動を参考にすること。
4.現役部員がOBになってからも活動をアウトプットする場を設けること。
です。

 現在、主な活動は3回生以下が担っています。一方で、部活で養った経験を活かし4回生以上が活躍している様子をしばしば見かけます。彼らが大学に所属している間は、それらの活動を部活のホームページで発信することができます。しかし大学を卒業すると、彼らは山行記録を発信する場がなくなってしまいます。実際、最近卒業した先輩たちが今も山登りをしているのか、現役部員である我々は知りえません。自らブログを始めるという方法で記録を発信することもできます。しかし、就職をしてからはたまにしか山に行かないし、ブログを建てるまでは...という方もいるかと思います。そのような時には、この掲示板を活用して山行記録を発信しましょう。
 大学を卒業してからも山登りを続けているOBの姿を見れば、現役部員である我々も頑張ろうという思いになります。
 話は変わりますが、山行記録だけでなくOB会などの告知もここで行うことができます。これは掲示板なので登録する必要はありません。誰でも自由に書き込むことができます。もちろん、書き込みに対して自由に返信することも可能です。画像やURLを添付して投稿することもできます。なので、すでにブログをお持ちの方はURLと一緒に投稿すれば、記事を見た人がブログの記事も一緒に読めます。
 今までのOBのページはログインする必要があるだけでなく、自由に書き込みをすることが出来ませんでした。なので非常に使いにくく、利用者は全くいませんでした。今回、この掲示板を開設したことでOBの方々が自由に記事を投稿することができるようになりました。山行記録でなくとも構いません。気軽に、そして自由に記事を投稿してください。
 自由度が増し、便利になった分、運営は利用者のモラルにかかっています。なので、あまりにも私的なことは控えて頂くようお願いします。また、荒らしを目的とした書き込みもやめて頂くようお願いします。

 この掲示板が活発に利用され、OBの活躍する姿が現役部員に届くことを祈ります。

http://kuwv.nobody.jp/


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